日常からの視点

オザケン再考。伝えることと、伝わること

 

いいともの最終回直前に小沢健二さんが16年ぶりにTV出演してたことと、タモリさんが絶賛する数少ないミュージシャンだってのは後から知った話ですが。

何故に小沢健二の話?という違和感は無きにしも非ずですが、
できるだけ様々なものから吸収と考察をするように心がけるのも
生活をする上で(=ビジネスをする上でも)重要な事だと思っています。

これまでも映画の話とか芸術家の話とかは
アフィリやネットビジネスを交えながら書いていましたが、
今回はネットビジネスへの具体的な置き換え論ではなく、
『人間の体温を感じるような根本的な部分を見直すきっかけになり得る』と
感じたことを執筆します。

 

私が小沢健二さんを知ったのはまだ高校生だった頃です。

当時の私は彼の音楽のほんの上辺だけしか聞かずに
『渋谷系』とかいうブーム性のある言葉がつきまとった人、だとか
ノリの軽い恋愛史上主義者だと思い込んでいたし
それ以上深く聴こうとする意志もなく10年以上経ち、
2014年の春を迎えました。

 

なんでまた今更、小沢健二さんの音楽を聴くようになったかというと
ほんとに些細なきっかけからなんですよね。

アフィリエイト用の記事を書いているときや
リサーチをするときは
集中するために無音で作業しているんですが、
デザイン関係の仕事などをするときは常に音楽をかけています。

誰しも経験があると思いますが、
音楽があると気分が上がりますし(曲にもよりますが)
制作意欲も高まるもので。

 

手持ちの音楽に飽きると
youtubeで誰かのミックスリストをかけっぱなしにしてたりするんですが、
その日偶然表示されたのが小沢健二さんのミックスリストでした。

 

「あー、オザケン最近見ないけど懐かしいなー」
ぐらいの体で流し始めたんですが、
「あれ、なんか、オザケンってこんなだったの?」と。

 

”渋谷系ポップ好きオリーブ少女のための王子様”が
こんな詞を書いていたのか…

いやいや、”渋谷系ポップ好きオリーブ少女のための王子様”ってのは
私の中の偶像であって、本当はそんなんじゃなかったんだ。

 

10年以上前から放置していた”思い込み”が解けつつあるのかと思うと
もう仕事どころじゃありません。

 

小沢健二。
なんだ、この人は?

 

知っていたけど知らなかった彼の音楽の世界が
気になって、知りたくて仕方なくなってしまいました。

 

私は小沢健二をまだよくしらない

過去の映像や音源をすこしずつ見開いてみることにしました。
ところでyoutubeって、本当すごいですよね。
自分が知りたい過去の記録が色あせず
瑞々しく表示されるんですから。

 

さて、youtubeで久米宏時代のニュースステーションを見ていたんですが、
そこでも「渋谷系」としてインタビューを受けた小沢健二さんは

「僕は渋谷系とか知らないしわからない」
「そんないろんな種類の人間がいるとも思ってない」

と、当時から既に完全否定していたんですね。

 

上辺だけを見ていた私はまんまとマスコミのトラップに嵌って
彼を深く知るタイミングを
10年以上も逃してしまったのは少し残念です。

まあ、自分が高校生のときに小沢健二さんを聞いてたとして
理解できていたかどうかは謎ですが。

 

私が小沢健二にドアノックされたのとほぼ時を同じくして
爆笑問題の田中さんが
「今になってわかる小沢健司の良さ」
をラジオで語っていたのを聞いて、ちょっと思った事があります。

 

田中さんのエピソードは、

最近のヒット曲の歌詞は詩ではなくブログ。比喩も情感も無い。
小沢健二がヒットしていた当時は否定してたけど
最近改めて聞くと良いと思った。

というものです。

興味がある方はこちらをどうぞ。(youtube)
>>田中裕二が西野カナよりも小沢健二の詩がいいと話す

 

 

国語のヒアリングテスト

話は変わりますが、最近は中学校の定期テストで
『国語の聞き取り問題』が実施されているんですね。

塾を経営している友人の話で知ったのですが、
「うちらが学生の頃ってそんなの無かったし、
何でわざわざ母国語を理解できているかの確認が必要なんだろう?」
という話をしていたんですが、どうやら

聞く力を身につける事でその場に応じた話す力も身につけるための
社会に出る準備

として、広く実施されるようになったようです。

 

以下のブログ記事によると
昔に比べて人の話が聞けない、
人の感情を理解できない人が増えている事への対策でもあるようですが。

参考:人の話が聞けない? 国語の試験にリスニング導入増える

 

なんだかすごく近い過去に”聞く事”や”伝える事”が
日常で生活の中で軽視されるようになってきた感じがしてしまいます。

今の10代の人や20代前半の人なんかはきっと、
小学校の頃からメールやネット上のやりとりが盛んで
自分の言いたい事だけを書くような、
お互いが一方通行の文章(というか、単語?)を書き交わしては
表面上でわかりあったり、あるいはトラブルになったり…

 

今更私ごときが書くことでもありませんが、
ネットが普及する前より
コミュニケーションが少し表面的になってきているってのはきっと事実で。

 

もちろん、みんながみんなそうだってわけじゃないけど、
若い人が「この歌、共感できる!」っていうような歌詞を読むと…

うーん…確かに。

田中さんの言ってる事にはすごく納得できて
ほんとに単調で意味の無い文面にしか思えなかったんですよね。

 

そうなんだ。
歌詞っていうのは、もっと情景が広がったり
ひとつの言葉から心情を読み取ったり
奥行きのあるものだったはずで。

 

オザケンの話に戻る。

答えを明示しない音楽。

もし、話す側の思いと聞く側の受け止め方に相違があれば
会話は噛み合ないしコミュニケーションもとれない。

サイトの作り手は、サイト閲覧者の立場を考えなければいけない。

だけど、音楽などの芸術は
必ずしも作り手と観客が同じ方向を見ている必要は無いし、
観客が出したモノの見方は、新たな作品にもなり得る。

具体的な答えが見えないからこそ
私たちは考えるし、それぞれの空気を感じる事が出来る。

全てが一辺倒な文章なら感情は単調になるばかりで
視野も思考も広がりようが無いじゃないか。

 

つまらないものが主流になっているんなら、
大多数に支持を得ているものを疑ってみれば良いんだけど
つまらないものだということにもなかなか気付けないから厄介です。

逆に、一度つまらないと思い込んでしまったものに
再び目を向ける事は一生の中で滅多に起こらないように思います。

偶然でも気がつける瞬間があれば、
私たちはそこに鋭く目を光らせていなければいけない。

 

ざっと一聴すると薄っぺらく聞こえる『ラブリー』だって
終盤は壮大な生命讃歌のようだし、
こんなに堂々と『幸せな生活』を歌い上げられるのって(それも嫌み無く)
あまりにも素敵すぎないでしょうか?

何事にも、思い込みの溝から脱出するきっかけを
逃さないようにしたいなってことをちょっと、書きたかったのです。

 

 

最後に。
春夏秋冬をうたった、美しい歌を1曲貼らせていただきます。

私には神様がなんなのか分からないし、多分信じてもいない。
でも、作り手の真意はわからなくても
聴く人それぞれの感情を抉り、独特の空気が全身を覆うのではないでしょうか。
…10分超の長い曲ですので「あんた何言ってんだ?」と
感じなかった方だけ聴いていただければと思いますm(_ _)m